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石井露月句碑
 石井露月句碑建立
 古、文化は羽州街道(現、牛島本町通り)を通って古代の秋田城、藩政期の久保田城下に至った。
 明治になって、秋田駅ができてからはこの街道を通って文化が秋田県の隅々まで広がることとなった。 牛島はその街道町であり、明治以降河辺郡牛嶋村、即ちこの地にあった。
 正岡子規門下にあって、高浜虚子、河東碧梧桐と並び称され、全国の俳人及び子規からも俳壇に異彩を放つと言われた石井露月は、俳句に於いては勿論、医術、教育、政治活動のため頻繁にこの羽州街道を往復し、大きな功績をこの牛島の地並びに全国に残した。
 この碑は、大正14年摂政宮(後の昭和天皇)秋田行啓を奉迎して詠じた句を刻したものであり、かつて牛島と隣接した楢山共和町の露月有縁の地にあったが、この度羽州街道を鎮守した三皇熊野神社里宮の境内に再建し、牛島の往時を偲ぶ縁とするものである。

『天さかる 鄙少女 野菊たてまつ連』 (あまさかる ひなおとめ のぎくたてまつれ)


 平成28年9月4日      
牛島地区石井露月顕彰会
会長 三浦喜夫
 
 ■石井露月■
 明治6年、秋田県河辺郡女米木(めめき)に生まれる。
 明治21年、秋田中学校に入学するも脚気を患い3年で退学。 文学を志して上京し、漢詩や随筆を書いていた。
 坪内逍遥を訪ね、文学修行の志を訴えるも入門を断られ、次に正岡子規を訪ねる。 子規は露月に対して文章のみならず句作についても教え導き、本格的に俳句を学ぶようになった。 しかし、上京からわずか1年後に再び脚気を患い帰郷することとなった。
 露月は郷里で健康を回復し、このころから医業へと志を変える。 露月は郷里で勉学に励み、明治31年医師前期試験に合格、新聞「日本」に在籍しながら実技の勉強も行い、医師後期試験に合格。医師の勉強の合間にも句作に励み、子規に見てもらっていた。
 子規は露月の句風を好み、河東碧梧桐、高浜虚子、内藤鳴雪の次に露月を取り上げて「碧、虚の外にありて、昨年の俳壇に異彩を放ちたる者を露月とす」と評している。
 医師後期試験後は秋田市内の新聞社に在籍して文を書きながら、県内俳壇の様子を子規に報告したり、県内で活躍していた日本派の俳人らと句会に出ては刺激を与えあった。
 医師としての臨床実習を終えると自村・戸米川村と種平村の村医となり精勤する傍ら句作も続け、子規に句を送っていた。
 のちに医院も新築し生活の基盤が固まってくると、貧困に疲弊した村の生活指導なども行った。 明治36年「女米鬼文庫※」を創設し明治41年から亡くなるまで20年にわたり村会議員を務め、夜学会や農事品評会などを通じて村民の指導や村政の刷新に尽力した。
 
 ※ 女米鬼文庫・・・現在は露月文庫

 

 露月の日記によると、牛島には露月の姉サキが嫁いだ鈴木家が営む雑貨店「かごや」があり、露月は度々訪れては昼食を取ったり宿泊したりしていた。
里宮が面する道路は江戸時代「羽州街道」として利用され、「かごや」も里宮近くの街道沿いにあったという。

 句碑 『天さかる 鄙少女 野菊たてまつれ』

 高さ約55cm
   除幕式

 清祓の後、地元の牛島小児童と城南中生徒が幕を取り払いました 
 この後、里宮にて奉告祭が執り行われました
  説明板    露月研究家 伊藤義一氏による講演

 里宮入口の鳥居の脇に建立されました。 是非一度お立ち寄りください(^^)




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