三皇熊野神社

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旧獅子頭さて毎年正月、松の内から数夜、ピーロロ、ピーロロピ、ピー、ドコドコドン、ドコドコドコ、ドコド、という、あの特徴のある笛や太鼓、すりがねなどのリズムとともに行われる獅子舞いの行事は、新春の牛島町を飾る風物詩として親しまれておりますが、この獅子舞に用いられる獅子頭(ししがしら)は熊野神社に古くから伝えられていたものです。製作年代は、おそらく幕末のころではないかという以外、他に詳しいことはわかりませんが、この獅子頭には、頭(あたま)と歯(は)と額(ひたい)にきわだった特徴が見られます。
 まず、獅子頭には角があるのが普通ですが、これにはそれがないことです。また、かつてあったのが落ちたというような痕跡も見当たりません。
 次は、歯が黒いことです。獅子頭の歯は大体金色なものですが、黒いのはいわゆる「お歯黒」で、これは女獅子であることを示しております。ここから、あるいはもう一体男獅子があったのではないか、それが何らかの事情で別れ別れになったのではなかろうか、などとも考えられますが、はっきりしたことはわかりません。
 三番目には、五本骨扇の紋が施されていることです。
 五本骨の扇章は、よく知られているように秋田藩主佐竹家の定紋です。その藩主の定紋が、どうしてここについているのでしょうか。
 もっとも、これと似た例は他にもないわけではありません。
 たとえば、昔から子授かりの神様として名高い仙北郡協和町境の唐松神社に、秋田県最古の蛇頭神楽面として県の有形文化財にもなっている獅子頭がありますが、その額にも五本骨の扇章が刻まれているのです。聞くところによれば、かつて佐竹の殿様が唐松神社の氏子だったことがあり、それと何か関係があるのであろうということです。たしかに、秋田三代藩主佐竹義処が唐松神社を領内第一の崇敬社として厚く信仰し、延宝8年(1680)に下宮を建立した他、毎年獅子神楽(ししかぐら)を全戸に巡回させたことが多くの文献や記録に残っております。したがって佐竹家が氏子だったということが事実かどうかはともかく、獅子頭の額に五本骨扇章が施されているのは、それなりに一応納得ができます。
 また、北秋田郡比内町扇田の神明社でも幔幕(まんまく)に五本骨の扇章が染め抜かれており、なお同神社の大神輿(おおみこし)は藩主佐竹家からの賜り物で、これには、当時の扇田の若者100人が久保田へやって来て直々拝領し、かけ声も勇ましく担いで帰って行ったという余話までがついております。
 ちなみに、南部藩に対する鹿角口の要衛で、一説に、神明社は万一の場合に備える秋田藩の隠し武器庫だった…などという話などもあります。
 となると、昔の牛島村は久保田町の南口に位置し、いわば城下ののど元ともいうべき重要地点に当たります。どこかしら扇田と相通じるものが感じられ、そこからいろいろと想像されるところもありますが、しかし神社や仏閣の建物、祭具に藩主の定紋を許したり、紋章のついた什器を賜ったりするといったことは領民慰撫の政策上などから、ひとり秋田藩のみならず、全国どこの藩でもまま見られたことで、あながちそう珍しいことではありません。
 しかし、それはそれとして、全く何の意味も理由もなく、この獅子頭の額に五本骨扇章が施されているはずはないと思われます。改めて牛島の歴史を考える上からも、大いに興味のあるところです。また文化財としても、そのはっきりした製作年代や、でき得るならば製作者の解明までを含め、いずれ機会を見て専門家によるきちんとした調査・鑑定がなされるべきであり、それは今後の大きな課題でもあるといえます。
 
 消えた獅子頭 <牛島シモノ若者>
旧獅子頭 口の中 シモノ若者 …ここに一つのエピソード伝えられております。
 昭和33年ころまで、三皇熊野神社(本宮)の鳥居をくぐった社殿の左側に御神輿堂(おみこしどう)があり、獅子頭は、御神輿と一緒にその中に収められておりました。今日と違い、大きな樹木うっそうと生い繁っていて草深く、神社のまわりは、まだそんなに人家がなく、人通りも少なくて寂しい所でした。
 大正の末か昭和の初め頃のことといいます。妙な噂が流れて来ました。開(ひらき)にSさんという祈祷師がおりましたが、そのSさんの夢まくらに毎晩<熊野さん>の獅子頭があらわれて「早く迎えに来てくれ」と訴えている、というのです。不思議に思って御神輿堂を開けて見ますと、獅子頭がなくなっていたのでした。
 驚いて八方手分けをして探したところ、間もなく、ある村の神社にしまわれていることがわかりました。どういうわけでそうなったのか、事情ははっきりしませんが、その村の若者たちが正月になると、獅子頭を携えて近くの村や部落をまわり、小遣い稼ぎをしていたのでした。
 さっそく、返してくれるよう交渉をはじめましたが、「これは質屋にあったのを買った物で牛島の方とは関係がない」といって、なかなか応じてくれません。それを何度も粘り強く交渉を続けた結果、ようやくこちらの言い分が通って取り返すことに成功したのでした。
 だれが彫ったのか、現在、獅子頭の口の中に素人の手で<牛島シモノ若者>という7文字が刻まれております。ずうっと前からこの7文字が彫られていて、それが動かぬ証拠となって取り返すことができたものか、それとも「また盗難にあっては大変だ」というので、取り返した後になってから彫ったものか、今は知る人もなく、また確かめようもありませんが、とにかく、地域に伝わる貴重な文化財を守ろうという、下丁の若者たちの心意気が切々と胸に迫ってくるような7文字です。

(平成8年 三皇さんのお獅子 吉田昭治氏著作より)
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